№205 「涙を抱いた渡り鳥」

「涙を抱いた渡り鳥」 №205
平成25年6月21日



       「涙を抱いた渡り鳥」
 
 卯の花と言えば「夏は来ぬ」ですが、いつぞや(たより№88)、この歌のように卯の花の匂う垣根にホトトギスが来るなんて、この歌が作られた百年前のことだろうという思いを書きましたら、福井のMさんが同地のご友人のお家には歌詞通り、いまも垣根にホトトギスが来るそうですと知らせて下さって「へぇーっ」でした。
 
 ところが先日、寺でも同じ珍事がありました。十日ほど前のことです。早朝、まだ床を離れぬうちホトトギスの声を聴きました。遠くではありません。寺の境内で鳴いているのです。大きくはっきりとあの独特の鳴き声を発しているのです。びっくりでした。遠く山の方で鳴いているのはいざ知らず、山里でもないこんなところにも来るのかと。
 
 私の驚きは、ホトトギスは山の鳥という思い込みがあるからです。その思い込みは自分自身の体験によっています。もう十年以上前のことになりますが、七、八月の真夏に四国お遍路をした時、何度となくホトトギスの声を聴く機会がありました。決まってそれは山の中でした。一人山中の道を辿っている時に聴いたのがホトトギスでした。
 
 特にまだ朝早く山越えの道で聴くホトトギスの声にはゆえ知らず淋しさを覚えてなりませんでしたが、そんな時ふと口に出たのが水前寺清子さんの「涙を抱いた渡り鳥」でした。「ひと声ないては旅から旅へ/くろうみやまのほととぎす/今日は淡路か明日は佐渡か/遠い都の恋しさに/濡らす袂のはずかしさ/いいさ涙を抱いた渡り鳥」
 
 誰もいない山の中を一人歩いている自分の姿が、この歌のホトトギスと重なってしみじみとしたことが忘れられません。その時感じた淋しさは、旅ゆえの淋しさであり、同時にそれは人生の淋しさであったと思います。 終わりのある旅も実は終わりのない永遠の旅の一齣に過ぎないというのが真実ではないでしょうか。
 
 余談ながら、この「涙を抱いた渡り鳥」の渡り鳥は若い女性なんですね。歌詞二番に「女と生まれたよろこびさえも/知らぬ他国の日暮道/ままよ浮世の風まま気まま/つばさ濡らして飛んで行く/乙女心の一人旅…」とあって知りました。
  君もまた 涙を抱いて 行く旅か 水無月の朝 鳴くホトトギス 


 

          谺(こだま)して 山ほととぎす ほしいまゝ                   杉田久女

 






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